"戦闘的ゴジラ主義者による"、現在ロードショウ館、二番館でかかっている映画の連載レヴュー。

好きな映画を仕事にして 第2回

お相手・嶋岡ひろし
構成・鎌田浩宮

嶋さんは1962年生まれ、今年で58歳。
今は、東京で野宿をしています。
冬は寒いので、稼ぎのいい時は、
ネットカフェに泊まるそうです。
この連載、1回目の記事はこちらです。

中学を出て、S劇場などを経営していたS興行へ、
1977年に入社。見習いの頃は無給、
トイレで泣いたこともあったそうです。
上司も慰めてくれたそうです。
叩き上げで映写技師となり、3年在籍。

その後S映劇を経て、80年代は
T座やS座やPやTを経営していた、A興業へ。
その後、嶋さんがいつ辞めて次の映画館へ移ったか、
正確な年度は聞いていません。

ちなみにA興業は、2003年に自己破産を申請。
映画館も閉鎖となりました。

嶋さんが最後に勤めたのは、
札幌で最後まで残った名画座・S座。
移動映写なども担当するも、2014年に閉館。
嶋さん、まさに札幌における
コヤ(映画館)の生き字引です。

札幌だけでなく、
日本全国の映画館がデジタル上映に変わり、
フィルムを扱う映写技師は
必要とされなくなりました。
また、多くの映画館が
デジタル上映の設備投資をできず、
閉館に追い込まれました。

嶋さんは、1度話すとなかなか止まりません。
時々、喋りすぎてごめんなさい、と言います。
いえ、面白いのでもっと聞かせて下さい、と返します。
野宿では、寒い中原稿を書いてもらうのも、しんどいでしょう。
なので今回からは、お喋りしてもらったことを、文章に起こします。
では、どうぞ!

 

 

帰宅は、夜中の2時でした。

 

夜中の2時に帰ってきたりして、そこからめしは作れなかったですね。仕事が終わらないと、帰れないんですよ。定時になったから「はいさようなら!」ってわけにはいかないですよ。

上映の後も、仕事がいっぱいあった。

フィルムをつなぐのも、間に合わせなきゃいけない。A興業の頃は、文字通り、何でも屋でしたから。映写もやって、興行収入を上げなきゃいけないから。本日の売り上げの数字を出して、お金の勘定をして。

―広島県の横川シネマは、確か館長がモギリもやって、映写もやって、全部おひとりでやっていたと記憶しています。

「ドラえもん」などをやれば、お客さんが増える。お客さんが増えれば、仕事も増えるってことですね。上の人はそれを理解してくれないから、もめましたよ。だから、サービス残業。

思い出したくないことも、ありますよ。夢に出ます。いまさら何を思い出すのかなあと思ってしまいます。A興業を辞める時、引き留めてくれる上司もいましたけどね。こんなくだらない理由で辞めていいのか、って。

仕事をやっていれば、嫌な事も忘れていました。休むのも、嫌いだったですから。人に迷惑がかかるし。仕事は好きでした。映写室に入れば、1人。

 

 

国は、カジノより映画に金を使うべきです。

 

普段は、1日1桁。春・夏・正月…この3本だけ当たればいい、食っていけるから。あとは、すき間の映画。1日に100人以上来れば、この時期は、人手が必要になる。

売店のものを売ればゴミは出るし、自販機にジュースの補充も、業者がやるわけじゃないんです。自分たちでやります。そのうえで映写技師の仕事。フィルムをばらして、次の用意をして、予告編も付け替えなきゃならないし。楽日にはポスターの貼り替えもあるし。

終電の後なので、女の子は更衣室で寝泊まりして。朝、顔を洗ってネクタイ締めて「いらっしゃいいらっしゃい」と。好きじゃなきゃできない仕事です。

名画座に勤めていた時、すごく文章のうまい同僚がいたんですよ。それもそのはず、日本映画学校のシナリオ科を卒業していて。うまくても、それだけじゃだめだっていう話ですよ。その人の才能だけじゃだめで、バックアップしてくれる人がいないと。

-「パラサイト」で一気に有名となった韓国は、映画に対する国のバックアップが素晴らしいですよね。調べてみると、特設映画館の設置、上映にかかる経費、上映素材のプリント費用…つまり映画館にまつわる支援まで行われているようです。

文化に金を使わないと。カジノに金を使うようじゃだめです。今でもアパートに住んでいる映画人がいっぱいいます。

 

 

見て技を盗め、じゃだめです。

 

上司もかつては同じミスをしている。経験で、何が原因か分かる。そういうことを色々教えてくれました。その時、教え方も学んだんですね。

自分も後輩に教える時、なんか聞いたことのあるセリフだなあ…、上司から教わったことをそのまま伝えているんですね。感動しました。同じことを言ってるんだって。

だから、他の映画館に移って、新人を教えていた時、教え方が違うって言われました。他の人は彼に、しっかり教えていない。やってるだけ。

それじゃ教えていることになりません。見て分かるのか?口で言わないと分からないことがあります。朝から晩まで酒飲んでやってる人もいましたしね。

教えるって大変なんですよ。盗んで覚える必要はない。俺を信用してくれなきゃ教えられない。僕はきちんと教えてもらって、幸せでした。

見習い期間では、フィルムとフィルムを、専用のテープや糊でつなげる「スプライス」を教わりました。これは、仕事じゃないんだと思いました。仕事をするための、準備。

これをいつまでもやってたら、お金をもらえないんだなと思いました。社長が、交通費とめし代を出してやれと言ってくれたので、5000円だけもらいました。

今では、見習いを教えている時もお金をもらえます。あと、僕らの頃は映写技師上がりの支配人が多かったですね。今はあまりいないでしょうから、現場を知らない人が多いんじゃないでしょうか。

「事件は現場で起きてるんだ」って言いたくなりますよ(笑)。自分が偉くならないと、会社を変えられない。サラリーマンの人は、皆よく思うんじゃないですか。

 

こちらは16㎜フィルムのスプライサーです。このように、専用の透明テープでフィルムとフィルムをつなげるんですよ。

 

S興行に勤めていた頃。

 

僕のいた会社の映画館、シネコンの走りですよね。ひとつのビルの中に、地下に4館、4階に1館、5階に2館、6階に1館、7階に大きな館がありました。時代ごとに増やしていったんです。映画が流行れば映画館を増やして、下火になればボーリング場にしたりして。

4階にあったのはボーリング場を改築したもので、天井が低くて、柱があるんですよ!柱がある映画館って珍しいなって!(笑)映写窓も低いから、背の高い人が通ると、スクリーンに映りこんじゃって。4階は、封切りの取れる映画館じゃなかったですね!

 

 

7階の札幌劇場では、「燃えよドラゴン」「エクソシスト」「E.T.」もやりました。1997年の「タイタニック」が塗り替えるまで、歴代の1位は「E.T.」(1982年)でしたから。いかに「E.T.」がすごかったか。でも、僕は観てないんですよ…(笑)!

 

 

第3回へ、続く…。


2020.02.13

好きな映画を仕事にして 第1回

文・嶋岡ひろし
構成・鎌田浩宮

東京の繁華街、路上。

嶋岡さんと知り合ったのは、2019年でした。
僕よりちぃと年上。マリリン・モンローが旅立った1962年生まれ、57歳。
札幌で映写技師として長く活躍し、今は野宿者です。

2人とも映画が好きなもんだから、道っぱたの寒い中、ずっと喋るんです。
カメジローさんのドキュメンタリーから、ドルビーシステムの歴史まで、とめどなく語り。

楽しいので、エプスタインズで連載記事を書いていただくことにしました。

スマホンもPCもお持ちではないので、テレフォンカードをお渡ししました。
脱稿したらお電話をいただく。 僕がその場に伺い、手書きの原稿用紙を受け取る。
そんな形で、始めました。

東日本大震災以降、もう友達は増やさなくていい、助けてくれた数少ない仲間とだけ、狭く深く交流していけばいい、と僕は思っていました。
しかしありがたいことに、知己が1人増えたんです。この出会いを、大切に育んでいきたいと思っています。

エプスタインズ編集長・鎌田浩宮

 

いつの頃からだろうか、暗い闇の中、熱いまなざしで映画を見るようになったのは、「燃えよドラゴン」(1973年 米・香港、R・クローズ監督 ブルース・リー主演)すべてはこの映画を見た時から始まった。

ブルース・リー(武道家・俳優)理屈ぬきで彼のアクションに驚き、動きの早さ、カッコよさ、彼のすべてに憧れた。その当時、ブルース・リーに魅了された多くの子どもたちがいた。僕もその一人だった。夢中になった。

彼の出演作をはじめ、色々な映画を見るようになった。ハリウッド映画、フランス映画、ヨーロッパ映画、もちろん邦画(日本映画)、ジャンルをとわずに見た。その時代、映画は、娯楽の中心にあった。

僕は20年間、映画にかかわる仕事をしてました。趣味も仕事も映画、僕にとって映画を見ることは普通のことで日常的なことでした。

 


編集部注:当時嶋岡さんが目にしたであろう、札幌劇場(須貝興行株式会社)の新聞広告です。

 

16才の秋、映画館の映写技師見習い募集の求人広告をみて応募して、採用されて、映画館を経営する興行会社に就職した。その会社の映画館は何度も映画を見に行っていた映画館で、通いなれていると言った方があってるかも、僕にとっての遊び場の一つだった。

その頃の映画館は、完全入れ替えなし、テケツ(チケット売場)、モギリ(受付)、立見(満席で立って見る)、そして何よりもフィルムを機械に掛けて映していた。休憩音楽が流れ、それが止り、開演を知らせるブザーがなり、場内が暗くなり、カーテンが開き、スクリーン(銀幕)に映し出される。

映画を映す人を映写技師と呼んだ。映写室は映画館の心臓部と言われ、それほど大事と言うことだろう、映画館の仕事の中で僕にはカッコ良く思えた。

僕が映写技師を始めた当時は2台の機械でフィルムを掛け替えて映すのが主流で、その前の世代はフィルムは可燃性で燃えやすく、免許が必要とされていた。僕の頃は不燃性に変わり、免許が不要になったが見習(研修期間)があり、スキルと経験が必要である事に変わりはない。

僕は今でも映写室に始めて(原文ママ)入った日の事をよく憶えている。映写室の真中に大きな機械が2台あり、室内が以外(ママ)に明るかった事、その時上映していた映画が「ワイルドギース」「刑事マルティンベック」の2本立だった。

 

「ワイルド・ギース」は傭兵…金稼ぎのために戦う兵士を描いたイギリス作品(1978)。監督は戦争ものや「シェナンドー河」「チザム」など西部劇でも知られるアンドリュー・V・マクラグレン。

 

「刑事マルティン・ベック」はなんとスウェーデン作品(1976・日本公開は1978)。ストックホルムを舞台に、悪徳警官殺しを追う初老刑事、犯人も警官なのか…?という北欧コップクライム。

 

映写技師の仕事は、配給会社から送られてきたフィルムをアルミまたはプラスチックのケースに分けられて、収め梱包されて、きた物をフィルムをつなぎ、映す機会に併せ、準備して、機械に掛けて映す。簡単に言えば、こう言う事だろう。

デジタルが主流の今、このフィルムをつなぐ(映画のもう一つの編集作業と言っていいかも)、この作業がない、これが映写技師(プロ)を必要としない要因の一つと言えるだろう、

このフィルムを、つなぐと言う作業は、つなぎ間違うと内容が違う映画を作ってしまう(巻の順じょ間違い)と言う事がおきる。だからスキルと経験が必要とする。

フィルムは消耗品であり、機械に掛ければ傷む、画面にキズが入ったり、パーフレーション(ママ)と呼ばれる所に切れつが入ったり、そのまま機械に掛ければ、事故、トラブルを引き起こす、それをふせぐために、テープで貼ったり修繕する。

 

 

フィルムをベストの状態にする。これがこの時代の映写技師の一番大事な仕事と言える。それを考えると、今のデジタルは、何万回映しても傷まない、レッカしない(何万回も今は映さない)点では、デジタルがよいと言えるだろう。

時代は流れ、機械も新しいものへと変わり、フィルムの掛け替えのいらないもの、全自動でプログラム等で映せる機械になり、僕の仕事も映写技師から映画館業務、映画興行全般の仕事となった。

時代はさらに流れ、ビデオの普及、DVD、ネット配信で映画が見られる。映画館はシネコンの時代に入り、そして、フィルムからデジタルへ…。

僕は映画の仕事を辞めた。無料動画のツイッターに、こう書込まれていた、フィルムからデジタル化への利点、映写技師不用、人員削減、利点と…。

僕が映画の仕事を20年、続けられたのは、映画が好き、映画の仕事が好き以上に、映画館が好きだった。今のシネコンと呼ばれる映画館ではなく、僕が少年時代を過ごした映画館、パラダイス座のようなー。

仕事を辞めて十数年、僕は今でも、あの頃の事、映画と過ごした日々を思い出す、心のスクリーンに記憶と言う思い出を映す事ができる、それはまるで映画ニュー・シネマ・パラダイスのラストシーンのように。

THE END(第2回に続きます…)

 

嶋岡さんの「パラダイス座」は、こちらを指します!

 


嶋岡さんの勤務したコヤ(劇場)の写真ではありませんが、このように映写機は2台!2時間の映画であれば、フィルムは5巻から10巻。1巻は15分前後。なので、映写技師が交互に途切れることなく、操作しなくっちゃならんのでした。つい最近までは、どこもこうだったんです。


2020.01.07

パターソン

文/写真・鎌田浩宮

1986年・高校3年生の時、初めて映画を監督した。
その時、カットとカットの間に黒味を入れた。
この年日本公開された「ストレンジャー・ザン・パラダイス」に影響されたからだ。
敬愛する仲井戸CHABO麗市も、この映画を好きだって。
嬉しいなあ。

「ゴースト・ドッグ」辺りからジャームッシュは、どのように生きるべきかということを描くようになった気がする。
武士道の葉隠をモチーフにし、人生をどのように考え歩むかを模索し始めたというか。
でも、前作「オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライヴ 」はつまらなかった。
もう、ジャームッシュは駄目かもしれないと思った。

一方僕は、東日本大震災で日常というものを失ってしまった。
息子同然だった愛猫をなくし、仕事を失い、幾人かの友人と別離した。

2011年からつい最近まで、生活を立て直すため、日常を取り戻すために必死だった。
2016年から、仕事を得て、カネが入り、愛猫の死を克服し、生活が回り始めた。
そうするとどうだろう。
人間というものはおかしなもので、ようやく平凡な日常を取り返したのに、もうそれに飽き足らなくなっていった。
ライヴにもっとお客さんが来ないものか、自分の音楽が売れるようになりたい、どうして僕のバンドは脚光を浴びないのだろう。
名声だの、名誉欲だの、そんなものが欲しくなっていた。

49年生きてきて、未だ何もなし得ていない。
このまま、齢を取り、死ぬのか。
僕の人生の、何が間違っていたのだろう。
これからどう生きていけばいいのだろう。
この5年間、考えもしなかったことだった。

街の外れにある、ヒューマントラストシネマ渋谷。
朝1番、10時過ぎの上映。
でも、そこそこ客が入っている。
嬉しい。

スクリーンが、開いた。

こんなに心穏やかなアメリカ人がいるのか、と驚いた。
様々な暴力に囲まれているアメリカ国内でも、穏やかな人はいるのだろうが、パターソンの場合はそれと少し違う。
心の中に平安がある。
その平安はアメリカ人であろうと日本人であろうと、獲得できている人はとても少ない。

主人公は、妻が作ってくれるサンドウィッチのお弁当を、金物のお弁当箱に詰めて職場へ持っていく。
まるでピクニックのようにも見えるけれど、僕の親の世代は、妻の作ったお弁当を持っていったものだった。
アメリカ人もお弁当持っていくんだな…その光景はとにもかくにも微笑ましい。

イタリアを訪れた知人が感嘆していた。
経済は停滞しているのに、人々は日本よりいきいきしているのだそうだ。
週末のサッカー・セリエAの観戦を楽しみにしている、というよりかはそれしか楽しみがないのかも知れないのだが、それで十分。
充足しているというのだ。
この映画で詩を書くという行為が出てくるが、人によっては週末のサッカー観戦だったりするのだと思う。

主人公の運転するバスが故障し、立往生する。
だが主人公は携帯電話を持っていないので、本社に連絡できない。
すると子供がスマホンを貸してくれる。
日本では大人の男性には近寄るなと教育されているので、こんな光景は見られない。
他にも、パターソンと少女が道端で死について語り合う素晴らしく美しいシーンがあるのだが、これも寂しい事に、日本ではあり得ないだろう。
日本では、子供とおじさんが分離している。

ジャームッシュ自らが、自身のユニットで音楽を担当している。
これが、パターソンの心の平安さと全く裏腹の、マイナーコードの電子音。面白い。違和感でしかない。
…日常のすぐそばに不穏はあるのだ、というメタファーなのだと思う。

日常を日常として過ごすことの困難さは、この映画の随所に描かれている。
危機は、すぐそばにある。
不良に声を掛けられる。
犬を盗むことをほのめかす不良。
酒場で色恋沙汰で発砲?
おもちゃのピストルだった。
そして、パターソンの運転するバスが故障し、動かなくなってしまう。

それらの不穏なエピソードの上に、妻の作ったカップケーキが市場でとても売れたんだという話が加わる。
これをジャームッシュが、あまり売れなかったというエピソードにしてしまっていたなら、僕はこの映画をどう捉えただろう?
庶民には、時折だけではあるが、ご褒美のような事が訪れる。
カップケーキが、売れた。
お祝いに、その晩は外食した。
この映画を豊かな作品にするためには、小さな不穏と小さな祝福が日常に入り組んでいる事を示唆すべきなのだ。

この映画では、遂に悲劇は訪れない。
やや危うい不穏が訪れるが、何とか日常は保たれる。
悲劇のない危機のない日常こそが、どれだけ有難いものか。
僕らは、911と311を経験した。
日常が、あっという間に吹っ飛んじまう経験をした。
日常を保てる事の有難さを学んだはずなのに、原発は再稼働し、戦争まで起こそうという政権が支持されている。

この映画に、2001年9月11日と結びつけるシーンがあってもよかったのかも知れない。
だが、それはジャームッシュの仕事ではなかった。
しかしこの映画は、人生においてカタストロフは滅多にやってこない、巨大な悲しみがそうやって来ないのと同時に、巨大な喜びはなかなかやって来ないことを描く事に主眼を置いている。

不穏と隣り合わせに生きつつ、平凡な日常を獲得する事の美しさを描く。
「ストレンジャー・ザン・パラダイス」から幾十年経ったのだろう。
ジャームッシュも僕も、齢を取った。
彼の傑作を、再び観る事ができて嬉しい。


2017.11.28